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【演劇】『マッチ売りの少女たち』は果たして臆病な猫なのか

March 10, 2014 9:24 AM jammy  演劇

ネオンホールプロデュース公演の演劇作品『マッチ売りの少女たち』と『私たちの街の記憶』を真剣に観た@ネオンホール(長野市)。『私たちの街の記憶』の感想はコチラ。

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■原作:別役実
■作:平田オリザ
■演出:西村和宏


■出演(*主婦A、Bはダブルキャストでの上演)
初老の男 土井れーじ
その妻  ミズタマリ
マッチ売りの少女
A あおやぎまゆみ
B 唐木さやか
C バンアカネ
少年  丸山耕平
市役所の課長 岡村二郎 
職員  中牧浩一郎
主婦A 紺乃星(星組)/佐藤和子(月組)
主婦B クランシー京子(星組)/ムラタヒロミ(月組)


<あらすじ>
「私、あなたの娘です。」
 そう言って平穏な老夫婦の食卓に次々と現れる少女たち。
しかし、夫婦の1人娘はとっくの昔に事故で死んでいた。
戸籍課の職員や近所の主婦まで駆けつけ、話は大きくなるばかり。
一体誰の言う事が真実なのか--。
別役実初期作品をコラージュした不条理劇


青年団演出部に所属しながら、四国学院大学の助教として学生に演劇やコミュニケーションについて教えている演出家・西村和宏さんが、市民と共にひとつの作品を作り上げる地域演劇創作プロジェクト(こんな名前じゃないけど)の6回目。今年はワークショップオーディションを経て選抜された10名が出演した『マッチ売りの少女たち』と、参加者が実体験を基に脚本を書き、演じる『私たちの街の記憶』の2本立て。恐らく参加者のほとんどが、演劇は趣味として嗜む勤め人や学生ばかり。

■あの夫婦は少女たちを待ちわびていたのか?
『マッチ売りの少女たち』。2週間連日連夜の稽古を経て作り上げた、90分の不条理劇。

夜。アールグレイを飲みながら他愛もない会話をする夫婦。娘を事故で亡くし2人きりの暮らし。特に何もない、平穏で、無音で、無味な日々。さして面白くもない話を、さも面白い話のように話す夫と、さして面白くもない話ですら笑顔を見せなくては「やっていられない」と言わんばかりの妻。何のノイズもない夫婦。そんな家。
そこに次々と現れる3人の少女と1人の少年。「あなたたちの娘です」「あなたたちの息子です」と言いながら。困惑する夫婦。いつの間にか街中に広まる、噂。噂を聞きつけて現れる市役所戸籍係の課長と職員。町内会の存亡を危惧しながら、回覧板を回すことに命を削る主婦Aと、夫婦に保険を薦めることが定めとすら思っている主婦B。静かな夫婦の暮らしに現れるノイジーな奴ら。果たしてこの子たちは、私たちの娘なのか。息子なのか。市役所職員は私たちの味方なのか、敵なのか。主婦は私たちの仲間なのか、野次馬なのか―。

不条理の「こっち側」にいる夫婦と、不条理の「あっち側」にいる少女たちが繰り広げる一幕劇は、不条理の上に実存的で本質的な(実存的で本質的な時点ですでに不条理なんだけど)台詞や舞台美術をゴソっと乗せて進行する不条リアル演劇だった。会話の端々に生っぽい台詞と記号的な台詞が混在しながら丁々発止のやり取りを見せつつ、本流はとことん不条理。現代口語演劇というリアルな息遣いを舞台に乗せる手法と、ベケットばりに荒廃したぬわっとした不条理性が、物語と言える物語もないのに「語ってしま」い、「見続けてしま」う推進力になっていた。

■夫婦が揺らめく「あっち側」と「こっち側」
登場人物10人が不条理の「こっち側」なのか「あっち側」なのかがだんだんわからなくなっていくさまがとても愉快。特に夫は首尾一貫して「こっち側」の人で在り続けるが、結局お前が1番不条理なんじゃねぇの?という気もしてくる。少女たちというノイズを拒否すればするほど、ノイズは大きくなる。耳を塞いだ手をそっと離し、ノイズに耳を傾けようとすると、少女たちは「逃げろー!」と叫んで姿を消す。夫が少女たちに歩み寄ると、彼女たちはスっと身を引く。「あっち側」と「こっち側」が交じり合い、すべてが不条理になりそうで、ならない。いい。西村さん曰く「少女たちは"運命"でありそれを受け入れるか入れないか、という事なんじゃないかな」と。なるほど確かに。

妻が「あっち側」と「こっち側」を揺らめくさまも楽しい。お茶のことばかり気にする妻。お湯が沸いているかばかり気にする妻。それは何の味もない毎日の中のありきたりな単なる行為ですらない。ただそういうこと、としか彼女は思っていない。そこに少女たちが現れる。妻はノイズを求めていたのか、じりじりと「あっち側」に片足を突っ込んでいく。「この子たち、私たちの子供なんじゃないかしら?」と、真剣な眼差しで夫を見る。きっと娘が死んでから、ただの一度だって夫に向けてこんなにも熱く哀しい視線を投げかけた事などないのでは、というほど不条理な「あっち側」の人間の目で。ズブズブと「あっち側」に埋まっていく妻。それを「こっち側」に引っ張り戻すのは夫ではなく、ただ理不尽でお節介な「こっち側」にいる五月蝿い主婦たち。回覧板、町内会、保険。そんな「こっち側」で起こる瑣末だけどちょっと面倒なアレコレが、妻をぐっと「こっち側」へと引き戻す。

■世の中はとても臆病な猫であると中島みゆきは言った
少女たちの哀しい過去。少年の痛ましい過去。その過去が事実なのか嘘っぱちなのかは、どうだってよい。嘘なら嘘でいいじゃないか。事実なら事実でいいじゃないか。彼女たちはこの舞台におけるアイコニックなそれとして存在し、3人それぞれが見事に少女を演じ切っていた。不条理の入り口をこじ開ける少女A、不条理の中で(良い意味で)軽々しさをもたらす少女B。嘘か真実かわからない数々のエピソードで場を翻弄しまくり、挙句の果てにビンタされる少年、最後に現れ不条理の出口を作り出す少女C。あの華々しさとほの暗い過去のズレも、恐らく不条理性のひとつ。

街の噂を聞きつけて現れるのは市役所戸籍係の課長と職員。不条理の中にあるナンセンスやユーモアを司る役回りだと思って観ていたら、どうやら違った。確かに笑いを取るシーンは多々ありつつも、課長が放った「目に見えないモノを浮かび上がらせる覚悟」という「こっち側」っぽい手触りの台詞をきっかけに、物凄い勢いで物語が動き出す。停滞したそれを力づくで蹴飛ばすような、暴力的な「こっち側」の言葉。

そしてラスト。少女たちもいなくなり、市役所職員もいなくなり、主婦たちもいない家。「ススメー!」「ニゲロー!」の号令と共に走り出す夫婦。薄く薄く聞こえてくる中島みゆきの『世情』。動き回る夫を一瞥し、椅子に座った妻が徐ろに独唱。

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする。

変わらないものを 何かにたとえて
その度 崩れちゃ そいつのせいにする


再び現れた少女たちと妻が歌い、課長と職員は戯れ、主婦たちは笑い合う。目の前にある「あっち側」の世界を、へたり込みながら眺める夫。溶暗。

■ローカル役者と演出家の座りの良さ
上演台本にはないラストの演出で少し傷つき、今でも頭が熱っぽい。なぜ中島みゆきの『世情』だったのか。そこばかり考える時間というのもあった。BGMで『世情』が流れるのではない。妻と少女たちが歌った。あのシーンに物凄い意味が込められている気がしてならなかった。終演後、西村さんのアフタートークではそこに言及するようなお話はなかったが、ひとつ「あ、これかな」と思わせるお話もあり満足満足。僕の予想とまったく違ったところも含めて、余白の多い豊かな演劇作品『マッチ売りの少女たち』であった。『世情』の、

包帯のような嘘を見破ることで
学者は世間を見たような気になる

という歌詞のように、『マッチ売りの少女たち』という嘘を見破ってすべてわかったような事を書きながらも、何一つわかっていないんだろうなぁ。

妻役・ミズタマリさん(theeでおなじみ)の場を制圧する演技力と、市役所職員役・中牧浩一郎さんの聞かせる芝居に感服。職員が被爆者であることを語るシーンは本当に素晴らしかった。
夫役・土井れーじさん(theeのヤクザでおなじみ)のゼロな感じの演技(ゼロというのは、ブレずにメーターが常に一定であるという賛辞です)と主婦役のムラタヒロミさん(theeのスパゲッティでおなじみ)、クランシー京子さんのまくし立てるあのちょっとイラっとする感じも、紺乃星さん、佐藤和子さんの噂好きな主婦感も(あぁこういう人いるいる感が「こっち側」と「あっち側」の段差を増幅してました)、課長役・岡村二郎さんの飄々とした中にチラ見せしてくる凶暴性も、少年役・丸山耕平さんの腹に一物ありそうでどこか愛らしくもふてぶてしい少年も、そして少女たち個々のキャラクターもすべてがまるっと収まり良く仕上がっていて、何よりも西村さんの演出力の賜物なんだなぁ、といった具合。なんとも座りの良い演劇作品でありました。

また来年もこの企画、ありますように。


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ジョッガ代表がhappy setな調子で謳い、綴っています。

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