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【本】古い戯曲本の間から、古い芝居の切符が出てきた。

October 9, 2015 11:21 AM jammy  演劇

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第15回岸田国士戯曲賞を受賞した唐十郎さんの作品『少女仮面』の戯曲本を、古本屋オンラインで購入。

夜中にパラパラとめくりながら燦爛たる台詞を夢中で追っていると、本の間から栞が落ちた、と思ったら芝居の切符だった。氏がかつて主宰していた劇団・状況劇場の切符。演目は『唐十郎版 俳優修業』、整理番号857番、1,300円。半券がそのまま残っている。切符の意匠は、当時状況劇場のポスターなどを手掛けていたゲージツ家・篠原勝之さん(だと思う)。

1977年に上演された作品の切符が、昭和52年(1977年)に第二版が出た戯曲本の間からこぼれ落ちた。真夜中にドキッとした出来事です。

【演劇】技術の無駄遣い演劇―鈴木林業第3回事業『PARA』に想う―

September 4, 2015 9:42 AM jammy  演劇

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9月、10月、11月は長野市門前界隈で楽しみな演劇が色々。先陣を切るのが劇団・鈴木林業。第3回公演『PARA』が9月12日(土)・13日(日)@ギャラリー花蔵で上演される。第一次産業を冠にしたこの劇団は、その枠から大いにはみ出した"演劇&音楽ユニット"であり、主宰する2人の若者は演技力に定評のある役者でもある。

ここ数ヶ月、夜な夜な若者たちが稽古場に集まっては何かコソコソやっているなという印象はあれど、一体どんな芝居をやろうとしているのかは未だによくわからない。演劇ですらない気がしてきている。稽古場に散乱する小道具、巨大な装置、触ったら怒られそうな機材。これらの断片をヒントに劇の骨格を導き出そうとするも、やはりよくわからない。舞台の真ん前にマイクスタンドが立っている。立派なスピーカーがある。ギターも置いてある。演出家がふと「歌詞書かなきゃ...」と独り言ちる姿を目にした時もある。

勇気を振り絞って演出家に聞いた。「演劇やるんだよね?」と。一応確認しておいた方がいいのではないかと思ったのだ。マイク、楽器、つまみだらけの機材、スピーカー、「歌詞書かなきゃ...」―。演劇作ってたつもりがいつの間にか新曲作ってた、みたいなことになっているのではないか。であれば早く教えてあげなくてはという老婆心からの問いであって、決して一言居士を気取ったわけではない。演出家は薄気味悪い笑顔で「ええ、まぁ」とだけ答え、裾花川に立ち込める夜霧の中に消えていった。あの時の笑顔、まるで人工甘味料、そう、たとえばパラチノースを口にした時のような笑顔は、未だに小便をしている時などにふと思い出す。

そして気付く。そうか。すでに劇は始まっているのだな、と。パラチノースのような笑顔が鈴木林業第3回事業・PARAの始まりだったのだ。パラチノースのパラ......。否、パラチノースはpalatinoseか......。わからん。ますますわからん鈴木林業。『PARA』でわかっていることといえば、5人くらいの役者が演じたりしながら高度な技術を無駄遣いする劇、ということくらいだ。


パラレルワールドに迷い込んでしまったような、目眩を感じるほどのパラドックスを目の当たりにしたような、参加したくもないパレードに無理矢理参加させられるような、種々雑多な"PARA"がパラシュート部隊よろしく次々と落下してくるであろう鈴木林業第3回事業『PARA』、9月12日(土)・13日(日)@ギャラリー花蔵で上演。公演情報などは鈴木林業公式サイトにて。色々な技術が登場する技術演劇なような気もするが、やはりわからない。

劇の事前情報を盛り込んだ記事にしたかったのに、本気で何をやらかそうとしているのかわからず、すべて憶測で書いた。パラチノース。

【演劇】カナリアの種類―ネオンホールプロデュース公演『カナリア』―

August 31, 2015 8:53 AM jammy  演劇

新興宗教団体ズラした殺人集団の拠点に強制捜査が入った時、捜査の先陣を切って突入したのは2羽のカナリアだった。毒ガスに敏感なカナリアが、命懸けで人間に危険を知らせたわけだ。そのカナリアがどうなったのかは知らない。ただ鳥籠を持った捜査員の姿を鮮明に記憶しているだけのことだ。20年も昔の話。

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ネオンホールプロデュース公演④
「カナリア」
作:黒岩力也
演出:大沢夏海(ネオンホール)
キャスト:小川哲郎、青柳真優美、あさこ、Abnormal system
舞台美術:下平千夏


「あたしのカナリアを見ませんでしたか。」

演出家滞在型の演劇創作企画「ネオンホールプロデュース演劇公演」は4回目になりました。プロジェクトが始まったのは2014年3月。1年半で4本というハイペースで演劇作品を創作することに私たち自身が驚き、この創作のモチベーションはなんなのだろうかと、自身に問いかけつつネオンホールの壮大な好奇心にみちた実験劇場に身を任せて今回も新しいチャレンジをします。
現代演劇の"演出"ということについて、考えたり実験したりする中で、プロの演出家を招いて創作するところに落ち着きそうな気配がありました。しかしまだ、長野で新たな才能を見いだしたいという欲望も捨てきれず、今回の公演はその小さな光を夜空に見つけるようなものだと思う訳です。

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ネオンホールプロデュース公演『カナリア』を観劇。

内向の世代的味わいのある、観念形態から意識的に距離を置く人々が「置換」によって割り振られた役割を全うしながら、誰の夢ともつかぬ夢の中に居場所を求める姿を、観る人に優しい構造で伝える不条理劇。不条理というほど条理が立たぬわけでもなく、かといってこれが条理なのかと言われるとモゴモゴっとしてしまう演劇は、白い男と青いライター売りの少女、赤い老婆と黒い子供の4人(もしくは3人と1羽、もしくは3人と1匹)が組んず解れつ「私は何者なのか」を主張し合い、時に家族となり、時に他人となるありさまを、抑えに抑えた演技と演出でぶっこんでくる80分であった。

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この世にあるすべての色を「混合」することで生み出せてしまう白、黒、青、赤、黄(ややオーバーだが)。"カナリアがいない"というワンフレーズで、これから始まる演劇が片手落ちの、欠損した、不完全な世界を描きますよというエクスキューズを劇の進行になじませながらお知らせしていく、というなんともスマートなやり口が素敵だった。

こんな捉え方もある。カナリアは、毒の世界からいち早く逃げ出してしまった。毒に気付かず居座り続けた結果、「頭の中まで真っ白になってしまった男」と「ライターを10個3円で売ると言い出す青い少女」と「老婆でもないのに老婆だと思っている赤い女」と「自己の発達を拒み子供でありつづける中年男」の醜態を晒す劇性と毒性を孕んだ劇。

こんな考え方もできる。カナリアはどこから逃げたのか。恐らく籠から抜け出し、窓から飛び出した。名前や立場をCtrl+H(置換)し、カナリアをCtrl+F(検索)し、虚実をCtrl+G(ジャンプ)し、それぞれの色を持った小部屋=セルに閉じこもりながら、他のセルとAlt+M(マージ)し合い、Ctrl+Y(分割)していく人々。無数の糸が車輪と交差した舞台美術をインターネットと見立てるのであれば、そして鳥籠の格子をエクセルの行と列に例えるのであれば、この劇はまさしく、コンピューター演劇、いや、エクセル演劇、いや、虚と実を自在に行き来する、ショートカット演劇ではなかろうか。

......。

カナリアは交雑を繰り返した結果、物凄い数の品種がいる。色、大きさ、鳴き声が異なる数多のカナリア。ネオンホールプロデュース公演『カナリア』は、解釈の交雑を繰り返し、さまざまな答えを導き出すことができるカナリア演劇だった(これも無数の解釈のうちのひとつ)。

(了)


【演劇】『私たちの街の記憶』における誰なんだ君たち、な快感

March 10, 2014 12:28 PM jammy  演劇

ネオンホールプロデュース公演の演劇作品、もうひとつは『私たちの街の記憶』。ちなみに『マッチ売りの少女たち』の感想はコチラ。

ワークショップ創作演劇「私たちの街の記憶」
■作:出演者
■構成・演出:西村和宏
■出演=いけだはるひこ、市川しをり、大村一仁、加藤亜紀歩、小林日香里、小林寛和、ゆかり、高橋詩織、土谷紘子、松山由美

ワークショップ参加者の実体験を基に、参加者自らが戯曲を書き、キャストを決め、自身も演じるというスタイルで創作した作品をオムニバス形式で上演。とにかく知らないことだらけの1時間。

まず出演している役者さんのほぼ半数を知らず、知っている役者さんのプライベートな一面を知らず、何よりこういうスタイルの創作があることを知らなかった。いや、知っていたけれど、そのやり方は稽古の過程にある、ほんの一部分の、モノを成立させるための行為だと思い込んでいた。その行為をほどほどに、軽く、ざっと、ちゃっちゃと整えて、えいやっと、ガサっと、そーれっと、舞台に放り込んできた。その手口がちょっとショッキングですらあった。まだまだケバっぽいし、雑然とした盛り付けだけど素材本来の旨みを楽しんでくださいって言われてさっと湯通ししただけのたけのことか見たこともないキノコが山盛り出てきた時のそれに近い。なんかそういう、何者なのかよくわからない人々が自分の知らないところで生きてきて体験したワンショットをぶっこまれた。

自身に起こったエピソードを描いた作品に本人が本人役として出演しているので妙に生々しいわけだ。知らなくてもいいことまで強制的に飛び込んでくる。役者さんと客席にはそれなりの距離があるものの、そんな距離は何なりとまたいで客の近くまで迫ってくる。あんたの恋愛話なんか知らねぇよ!君の辛かった話なんぞ興味ないよ!誰なんだ君たち!という思いなんか軽々と蹴散らしてくる。そして気付けばじっと観ていた。誰なんだ君たちと思いながら。少し笑ったりした。そして色々と感心したりもした。創作する上で感じる「恥」のようなもの。その「恥」を作品の核として、そこから広げるという手口。容易いようでこれなかなかの勇気。

自己肯定感、なんていう言葉を最近チラホラ耳にするようになり、『私たちの街の記憶』も作り上げる中でそこに近しい気持ち良さや安心感があったのかなと。自身に巻き起こったアレやコレやの渺々たる出来事をモミモミして、西村演出に揃えていったら作品となったわけだから。誰なんだ君たちと思われていたのに、1時間後には昔から知ってる人のような、あぁいい人生かもしれませんねぇと思わせるような、そういう肯定感と親近感を抱かせる手口。昔『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』という番組があったのだが(観たことないけど)、まさに『西村和宏にはダマされないぞ!(そしてダマされた)』という、痛快な創作演劇でした。それぞれの上演内容はプライベート満載なのでそっとしておこう。

ただあれ、料金取って上演しなくてもよかったのではないかな......。もっとオープンにさまざまな人に見せることで、演劇入門じゃないけど、「あ、ちょっと楽しいかも」というきっかけのきっかけくらいにはなりそうな気も。

【演劇】『マッチ売りの少女たち』は果たして臆病な猫なのか

March 10, 2014 9:24 AM jammy  演劇

ネオンホールプロデュース公演の演劇作品『マッチ売りの少女たち』と『私たちの街の記憶』を真剣に観た@ネオンホール(長野市)。『私たちの街の記憶』の感想はコチラ。

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■原作:別役実
■作:平田オリザ
■演出:西村和宏


■出演(*主婦A、Bはダブルキャストでの上演)
初老の男 土井れーじ
その妻  ミズタマリ
マッチ売りの少女
A あおやぎまゆみ
B 唐木さやか
C バンアカネ
少年  丸山耕平
市役所の課長 岡村二郎 
職員  中牧浩一郎
主婦A 紺乃星(星組)/佐藤和子(月組)
主婦B クランシー京子(星組)/ムラタヒロミ(月組)


<あらすじ>
「私、あなたの娘です。」
 そう言って平穏な老夫婦の食卓に次々と現れる少女たち。
しかし、夫婦の1人娘はとっくの昔に事故で死んでいた。
戸籍課の職員や近所の主婦まで駆けつけ、話は大きくなるばかり。
一体誰の言う事が真実なのか--。
別役実初期作品をコラージュした不条理劇


青年団演出部に所属しながら、四国学院大学の助教として学生に演劇やコミュニケーションについて教えている演出家・西村和宏さんが、市民と共にひとつの作品を作り上げる地域演劇創作プロジェクト(こんな名前じゃないけど)の6回目。今年はワークショップオーディションを経て選抜された10名が出演した『マッチ売りの少女たち』と、参加者が実体験を基に脚本を書き、演じる『私たちの街の記憶』の2本立て。恐らく参加者のほとんどが、演劇は趣味として嗜む勤め人や学生ばかり。

■あの夫婦は少女たちを待ちわびていたのか?
『マッチ売りの少女たち』。2週間連日連夜の稽古を経て作り上げた、90分の不条理劇。

夜。アールグレイを飲みながら他愛もない会話をする夫婦。娘を事故で亡くし2人きりの暮らし。特に何もない、平穏で、無音で、無味な日々。さして面白くもない話を、さも面白い話のように話す夫と、さして面白くもない話ですら笑顔を見せなくては「やっていられない」と言わんばかりの妻。何のノイズもない夫婦。そんな家。
そこに次々と現れる3人の少女と1人の少年。「あなたたちの娘です」「あなたたちの息子です」と言いながら。困惑する夫婦。いつの間にか街中に広まる、噂。噂を聞きつけて現れる市役所戸籍係の課長と職員。町内会の存亡を危惧しながら、回覧板を回すことに命を削る主婦Aと、夫婦に保険を薦めることが定めとすら思っている主婦B。静かな夫婦の暮らしに現れるノイジーな奴ら。果たしてこの子たちは、私たちの娘なのか。息子なのか。市役所職員は私たちの味方なのか、敵なのか。主婦は私たちの仲間なのか、野次馬なのか―。

不条理の「こっち側」にいる夫婦と、不条理の「あっち側」にいる少女たちが繰り広げる一幕劇は、不条理の上に実存的で本質的な(実存的で本質的な時点ですでに不条理なんだけど)台詞や舞台美術をゴソっと乗せて進行する不条リアル演劇だった。会話の端々に生っぽい台詞と記号的な台詞が混在しながら丁々発止のやり取りを見せつつ、本流はとことん不条理。現代口語演劇というリアルな息遣いを舞台に乗せる手法と、ベケットばりに荒廃したぬわっとした不条理性が、物語と言える物語もないのに「語ってしま」い、「見続けてしま」う推進力になっていた。

■夫婦が揺らめく「あっち側」と「こっち側」
登場人物10人が不条理の「こっち側」なのか「あっち側」なのかがだんだんわからなくなっていくさまがとても愉快。特に夫は首尾一貫して「こっち側」の人で在り続けるが、結局お前が1番不条理なんじゃねぇの?という気もしてくる。少女たちというノイズを拒否すればするほど、ノイズは大きくなる。耳を塞いだ手をそっと離し、ノイズに耳を傾けようとすると、少女たちは「逃げろー!」と叫んで姿を消す。夫が少女たちに歩み寄ると、彼女たちはスっと身を引く。「あっち側」と「こっち側」が交じり合い、すべてが不条理になりそうで、ならない。いい。西村さん曰く「少女たちは"運命"でありそれを受け入れるか入れないか、という事なんじゃないかな」と。なるほど確かに。

妻が「あっち側」と「こっち側」を揺らめくさまも楽しい。お茶のことばかり気にする妻。お湯が沸いているかばかり気にする妻。それは何の味もない毎日の中のありきたりな単なる行為ですらない。ただそういうこと、としか彼女は思っていない。そこに少女たちが現れる。妻はノイズを求めていたのか、じりじりと「あっち側」に片足を突っ込んでいく。「この子たち、私たちの子供なんじゃないかしら?」と、真剣な眼差しで夫を見る。きっと娘が死んでから、ただの一度だって夫に向けてこんなにも熱く哀しい視線を投げかけた事などないのでは、というほど不条理な「あっち側」の人間の目で。ズブズブと「あっち側」に埋まっていく妻。それを「こっち側」に引っ張り戻すのは夫ではなく、ただ理不尽でお節介な「こっち側」にいる五月蝿い主婦たち。回覧板、町内会、保険。そんな「こっち側」で起こる瑣末だけどちょっと面倒なアレコレが、妻をぐっと「こっち側」へと引き戻す。

■世の中はとても臆病な猫であると中島みゆきは言った
少女たちの哀しい過去。少年の痛ましい過去。その過去が事実なのか嘘っぱちなのかは、どうだってよい。嘘なら嘘でいいじゃないか。事実なら事実でいいじゃないか。彼女たちはこの舞台におけるアイコニックなそれとして存在し、3人それぞれが見事に少女を演じ切っていた。不条理の入り口をこじ開ける少女A、不条理の中で(良い意味で)軽々しさをもたらす少女B。嘘か真実かわからない数々のエピソードで場を翻弄しまくり、挙句の果てにビンタされる少年、最後に現れ不条理の出口を作り出す少女C。あの華々しさとほの暗い過去のズレも、恐らく不条理性のひとつ。

街の噂を聞きつけて現れるのは市役所戸籍係の課長と職員。不条理の中にあるナンセンスやユーモアを司る役回りだと思って観ていたら、どうやら違った。確かに笑いを取るシーンは多々ありつつも、課長が放った「目に見えないモノを浮かび上がらせる覚悟」という「こっち側」っぽい手触りの台詞をきっかけに、物凄い勢いで物語が動き出す。停滞したそれを力づくで蹴飛ばすような、暴力的な「こっち側」の言葉。

そしてラスト。少女たちもいなくなり、市役所職員もいなくなり、主婦たちもいない家。「ススメー!」「ニゲロー!」の号令と共に走り出す夫婦。薄く薄く聞こえてくる中島みゆきの『世情』。動き回る夫を一瞥し、椅子に座った妻が徐ろに独唱。

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする。

変わらないものを 何かにたとえて
その度 崩れちゃ そいつのせいにする


再び現れた少女たちと妻が歌い、課長と職員は戯れ、主婦たちは笑い合う。目の前にある「あっち側」の世界を、へたり込みながら眺める夫。溶暗。

■ローカル役者と演出家の座りの良さ
上演台本にはないラストの演出で少し傷つき、今でも頭が熱っぽい。なぜ中島みゆきの『世情』だったのか。そこばかり考える時間というのもあった。BGMで『世情』が流れるのではない。妻と少女たちが歌った。あのシーンに物凄い意味が込められている気がしてならなかった。終演後、西村さんのアフタートークではそこに言及するようなお話はなかったが、ひとつ「あ、これかな」と思わせるお話もあり満足満足。僕の予想とまったく違ったところも含めて、余白の多い豊かな演劇作品『マッチ売りの少女たち』であった。『世情』の、

包帯のような嘘を見破ることで
学者は世間を見たような気になる

という歌詞のように、『マッチ売りの少女たち』という嘘を見破ってすべてわかったような事を書きながらも、何一つわかっていないんだろうなぁ。

妻役・ミズタマリさん(theeでおなじみ)の場を制圧する演技力と、市役所職員役・中牧浩一郎さんの聞かせる芝居に感服。職員が被爆者であることを語るシーンは本当に素晴らしかった。
夫役・土井れーじさん(theeのヤクザでおなじみ)のゼロな感じの演技(ゼロというのは、ブレずにメーターが常に一定であるという賛辞です)と主婦役のムラタヒロミさん(theeのスパゲッティでおなじみ)、クランシー京子さんのまくし立てるあのちょっとイラっとする感じも、紺乃星さん、佐藤和子さんの噂好きな主婦感も(あぁこういう人いるいる感が「こっち側」と「あっち側」の段差を増幅してました)、課長役・岡村二郎さんの飄々とした中にチラ見せしてくる凶暴性も、少年役・丸山耕平さんの腹に一物ありそうでどこか愛らしくもふてぶてしい少年も、そして少女たち個々のキャラクターもすべてがまるっと収まり良く仕上がっていて、何よりも西村さんの演出力の賜物なんだなぁ、といった具合。なんとも座りの良い演劇作品でありました。

また来年もこの企画、ありますように。


『犬神』とマレーシア男。

October 26, 2013 11:49 PM jammy  最近のこと 演劇

演劇実験室カフェシアター『犬神』、うっかり2日目も観劇させて頂いた。初日は後ろの方で椅子に座ってワイドな視野にて鑑賞し、2日目は桟敷席最前列を陣取ってズームアップな視野にて。
演劇実験室カフェシアター主宰の中澤清氏と以前お話させて頂いた際に「演劇はなるべく舞台の近くで観た方がいい。テレビや映画は遠い席、演劇は近い席。出来れば役者の唾が見えるくらいのところがいい。」と仰っていた。わーなんか、すっごい良い事言うなぁと思い、「どうして近い方がいいんですか?」と聞き返したところ「だって面白いじゃん」とかなりポップなお返事を頂いた事を思い出しつつの桟敷席観劇。結果、面白かった。

仮面の造作を隅々まで見てしまうほどの近い席。仮面のクオリティ半端なかった。仮面ひとつひとつに物語が宿っていやがった。花嫁とその母親の仮面はマカロンみたいな、なんかちっちゃいどら焼きみたいなものが積み重なって乗っていて、母の浮かれポンチな様子と世間知らずな娘の間抜けポンチなさまを仮面で表現するともうこれしかないだろう、というくらいスカタンで、でも造形として美しいというずるい仮面。月雄やミツの幻影がつける仮面の白さと形は、通うべきところに血が通っていない血液の渋滞を感じさせ、姑の仮面に刻まれた皺は、意地でもこの村で生きてやろうという、生に対するみっともない固執を想起させる。それくらい、仮面に物語が張り付いていた。舞台上で進行する劇とは別の劇が仮面にあった。どっちの劇も追いかけなくてはいけなくなったので、俄然忙しかった。
本当は仮面にそんな劇性なんてなかったのかもしれない。だけど、そこまで思いを巡らせてしまう地場が『犬神』にはある。公演は明日10月27日(日)まで。

で、だ。

3年前の12月に長野市へバックパッカーとして現れ、しばらく長野市門前界隈に滞在していたマレーシア人デザイナーがいた。名前をDriv Loo。発音的には「デュリフ」みたいな感じらしいが、ややこしいのでドリフと呼ばれていた男。世界的に有名な海外の某広告代理店でアートディレクターとして活躍していた彼が(その事実はドリフ帰国後に知るのだが)、おかしな流れから門前のデザイナー宅にしばらく居候していた時期がある。
門前デザイナーは英語が話せない。ドリフも日本語が話せない。そんなふたりが共同生活を平気な顔して送っていたことも今となっては理解不能なのだが、そのドリフが今日3年ぶりに長野市へやって来た。
3年前はひとりだったのに、3年後の今日は恋人と一緒に現れたドリフ。生意気なドリフになっていた。今着るには少し季節外れな赤いスタジャンを着て、ドリフと再会。3年前に出会った時と同じ赤いスタジャン。それを見て開口一番「あの時と同じ服」とニヤニヤしながらドリフは言った。気付くかなと思って着ていった甲斐があったというものだ。3年なんて、そんなもんだ。

そのドリフらと共に、先の『犬神』2日目終演後の打ち上げにお邪魔させて頂く。ジャパニーズアンダーグラウンドシアターに足を踏み込んだドリフはその打ち上げの様子を見て「ここにいる人全員が演劇に出ていた役者なの?」と聞くので自信を持ってそうだ、こんなにたくさんの人が出ている演劇なのだ、と言おうと思い車座になって飲み食いしている人々をざっと見渡すと、全然知らない人とかもいたから「ここにいる人全員は出ていないが、出ていたような顔をして酒を飲んでいる人もいる」とお伝えした。

せっかくなので日本っぽいお酒を、と思い芋焼酎を紙コップで。度数が24%くらいのやつだったので、ドリフに「24パーだよ」と日本語で言うと「ニジュウヨンパァ(・_・)」みたいな顔しやがったから力強く頷いた。彼も釣られて頷いていた。頷きドリフだった。さすがのドリフも得体の知れない液体を飲まされるのが怖かったらしくしきりにこれは何だ?と聞いてきたので、芋焼酎だ、と教えると(もちろん日本語で)、「イモジョーチュゥ(・_・)」と繰り返したので仕方がない、ここは英語で教えてやるかと思うも「芋」の英語がわからなかったので取り急ぎ「ポテトドリンク」とお知らせしておいた。そしてドリフは頷いた。

12月1日に短編劇場に出るからおいでよ!と誘うと苦々しい顔で時計を指さしながら、ドリフは門前の街へと消えていった。こうして短い再会は幕を閉じたのでした。


仮面劇『犬神』で抱く多幸感

October 26, 2013 1:35 AM jammy  演劇 長野

演劇実験室カフェシアター公開ワークショップVol.37『犬神』を観劇@長野市ネオンホール。

一族が次々と不可解な死に方をする首家(くびけ)の末裔ミツは、谷間にある犬田家に嫁ぐ。ある日ミツは山で犬に襲われ気狂いに。9ヶ月後、子供を身ごもったミツは「犬の子が生まれる」と言って生むことを嫌がり、村人たちからは「犬憑き筋の家から生まれた子はきっと犬だ」と噂される。誰からも望まれることなく生まれたのが、主人公の月雄。
母・ミツは月雄が5歳の時に草刈り鎌で自らの命を絶ち、月雄の父は女と逃げてしまう。家には姑と月雄のふたりだけが残り、月雄は母の幻影を抱きながら成長していく。そして「シロ」という名の犬と出会い、月雄の人生が流転し始めるのであった―。
というようなお話。

■幸せってなんだっけ?
村八分や爪弾きといったTHEニッポンの習俗性や土着性がじゅくじゅくと滲み出るコミュニティの中で生きる月雄。彼が生まれた時から抱き続ける徹底した孤独感は、この土くさい集落で生きるための唯一の指標だったのではなかろうか。孤独が月雄を守っていたのではなかろうか。成長し、賢い大人になった月雄は、その賢さゆえに孤独を断ち切ろうと一匹の犬に傾倒し、孤独(という指標)から目を逸らしてしまった。孤独でよかったのではないかとさえ思える月雄の生き方。変わらず孤独であれば、あんな絶望的な幕切れも訪れなかったのではないか。
何をもって「幸福」なのか。何をもって「不幸」なのか。その境目が緩やかに混じり合っていく。それも犬神の仕業なのかもしれない。

■仮面が持つ、演劇に対する拡張性
複雑に入り組んでいるわけでもなく、時間軸が交錯するわけでもない、清々しいほどに潔いあらすじ。物語。元々はラジオドラマとして書かれた作品というのも頷けるこのストーリーを、単に達者な役者が演じるだけでは余りにもスマートで、余りにも食べやすい70分である。「清々しいほどに潔い、スマートで食べやすい物語」を、とことん怪しげで薄気味悪く、食べにくく、一筋縄ではいかない演劇に拡張しているのは、仮面の存在だ。全編登場人物が仮面をつけて演じているその姿こそ、『犬神』を見終わった後に残る満足感の正体だ。精巧で怪しげないくつもの仮面の妙味と、寺山修司が生み出した鋭く突き刺さる台詞の数々。この2つを味わった観客は、誰しもがお腹いっぱいで劇場を後にしたのではないか、そう思ってしまうほど仮面と台詞の圧が凄まじい。仮面欲しい。

■全員芝居が達者というミラクル
印象的に残っているのは少年時代の月雄が犬に囲まれるシーン。どこからともなく聞こえてくるたくさんの犬の遠吠えと、そこにただ佇む月雄に武者震い。その他気になる演技やシーン多数。プロローグの長台詞(すごい長い)を、キレキレな勢いで語りまくる女詩人。怒鳴りこんでくるおかみさん安定の怒り芝居。白痴ライクで世間知らずな娘の花嫁姿を見て、娘以上にキャンキャン喜びグルグル走り回る、けったくそ悪い母の存在感。自ら縄でカラダを縛って痙攣していた黒子の動き。惨めったらしくもかっこ良い月雄の父と、学校の先生のユニークな身体表現。青年になった月雄の儚さ。
役者さん全員達者っていうのもさすがのカフェシアター、な印象。好みの演劇を、好みの役者さんが演じ、何より主宰・中沢清氏の演出作品を観ることが出来たという多幸感を抱きながら、傘を適当に差して家路を急いだ。

ひとつ言うなら、照明が暗すぎるのではなかろうか。今回に限ってはもっともっと明るくたってよかったのではないかと思う。個人的には冒頭に登場する女詩人の顔があまりよく見えなかったことで、なかなか物語への没入が出来なかった。何よりさまざまな趣向を凝らした仮面がよく見えず、結構ストレス。かなり明るくてよく見えるのに、仮面をして演じているから役者の顔は見えないのだ!という、見えてるけど見えてない、なコントラストを期待していたのだが、少し残念。

長野市ネオンホールで10月27日(日)まで上演。観た方がいいなぁ。台風も逸れたし。
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演劇実験室カフェシアター公開ワークショップVol.37『犬神』
■作=寺山修司
■演出=中沢清
■出演=クランシー京子、ユッカ、如月はつか、雪之丞大、下垣浩、ジューシー奥村、yumi、ゆかり、小林日香里、松本阿子、一樹玻瑠、アロ~ハ太郎、ヒロミ・デ・バルドー、しゅうな、ミズタマリ、チキータ北島

●故・寺山修司が率いた劇団「演劇実験室 天井桟敷」の元劇団員であり、長野市の演劇界の不穏で確かな通奏低音的存在である中沢清氏が率いる「演劇実験室カフェシアター」の最新公演。演目は、初期寺山戯曲の名作「犬神」! ディープな演劇ファンから演劇未経験の方まで...乞う、ご期待!

【上映時間】
10/26(土)開場14:30/開演15:00
10/27(日)開場14:30/開演15:00
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welcome to happy set by jogga
ジョッガ代表がhappy setな調子で謳い、綴っています。

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